平成の時代が終わりを告げ、ついに新元号・令和の時代が到来しました。
そして、2024年には現在の紙幣の肖像も総入れ替えされることも発表されています。
紙幣の肖像で最も驚いたのが、5,000円札に女性の樋口一葉さんが起用されたことでした。
前任していた新渡戸稲造さんは恰幅のいい男性でしたので、か細い女性の肖像が採用されることが、非常に意外で違和感を覚えました。
そして今回、樋口一葉さんから5,000円札のバトンを受け取ったのが津田梅子さんで、またもや女性が採用されたのです。
もしかしたら今後、5,000円札は女性がバトンを繋いでいくのかもしれませんね。
さて、津田梅子さん。
何をされた方なのでしょうか?
麻生太郎財務大臣の記者会見で発表された際、そのデザインも公開となりましたが・・・ごめんなさい。
3人とも名前すら存じ上げませんでした。
そこで今回は、女性が唯一採用されている5,000円札の肖像に選ばれた、津田梅子さんについてまとめました。
一万円札の肖像画に採用された渋沢栄一
津田梅子は帰国子女!父が仕組んだ留学!
津田梅子さんは現在の津田塾大学を設立し、身分に関係なく全ての女性が教育を受けることができるように尽力した人物です。
津田梅子の基本情報
名 前/ 津田梅子(つだうめこ)
幼 名/ 津田むめ(うめ)
出身地/ 江戸牛込南御徒町(現:東京都新宿区南町)
生年月日/ 1864年12月31日
没年月日/ 1929年8月16日
父/ 津田仙(つだせん)
母/ 初子
長い江戸時代を終え明治時代に突入したと言っても、『留学』ってなかなか出来るものではないと思われます。
なぜ津田梅子さんは留学することになったのでしょうか。
それはすべて、父・津田仙さんに仕組まれたものだったのです。
津田梅子さんの父・津田仙さんは幕府に仕える位の高い幕臣だったため、幕府が崩壊したことで職を失います。
が、のちの1871(明治4)年に北海道開拓使の嘱託として働くことになるのですが、その職場に開拓使次官として務めていたのが黒田清隆さんです。
黒田清隆さんは女性の留学に尽力していたそうで、ヨーロッパ旅行から戻るとすぐに『女子をアメリカに留学させよう』という企画を立てました。
これにいたく感銘を受けた津田梅子さんの父・津田仙さんは、若干6歳という幼い娘を渡米させることにしたのでした。
津田梅子の最初の留学
岩倉使節団の最年少留学生としてアメリカに渡った津田梅子さんは、ワシントン郊外にあるジョージタウンに住んでいた、日本弁務官書紀のチャールズランマン夫妻に預けられることになります。
アメリカには11年間、津田梅子さんが18歳になるまで滞在することになるのですが、この間に『ラテン語・フランス語・科学・心理学』などを学び、父・津田仙さんの思惑通りに多くの教養を身につけていきました。
「日本で、多くの女性が学べる学校を創る!」そんな目標に胸を高鳴らせながら1882年、日本に帰国した津田梅子さんは、途轍もない衝撃を受けるのです。
みなさんのご想像の通り、それはアメリカと日本の文化の違いでした。
そしてこんなふうにも思ったそうです。
「なんて日本は女性が働ける職が少ないの?」
「女性が学問を身につけるのは全て結婚だけのため?!」
英語の教員として働く一方で、次から次へと舞い込む縁談話にウンザリした津田梅子さんは遂に、1889年に再びアメリカへの留学を決断したのです。
津田梅子は帰国子女!二度目の留学とは!
当時の日本に根付いていた『結婚が普通』という風潮が強かっただけに、アメリカ生活が長かった津田梅子さんにとっては煩わしかったでしょうね。
学校を創るために帰国したのにそれが叶いそうにないと感じれば、そりゃあ、アメリカに戻りたくもなりますよ。
しかし、津田梅子さんの掲げていた『女性が学べる学校を創る』という志は、消えてしまったわけではなかったのです。
再びアメリカ地を踏んだ理由は、女性の地位を向上させる方法を研究するためだったのです。
二度目の留学をして3年後、1892年に再び日本へ帰国した津田梅子さんは、華族女学校の教師として再び働き始めます。
津田梅子さんの教育スタイルは異常なまでに熱心だったそうで、1894年には明治女学院も掛け持ちで講師を務め、1898年には女子高等師範学校教授をも兼任したそうです。
津田梅子は帰国子女!教育方針は?
1900年、多忙な毎日の合間を縫って準備を進めていた『夢』を始動させる時が来ました。
これまで務めていた全ての職を退き、麹町に『女子英学塾』を設立したのです。
開講式で津田梅子さんは、このような言葉を述べられました。
「真の教育には、教師の熱心、学生の研究心が大切であること」
「また、学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましいこと」
「更に人間として女性としてall-roundでなければならないこと」
この言葉は、津田塾大学となった現在でもしっかりと受け継がれています。
津田梅子さんは日本の当たり前とする風潮を突っぱね生涯独身を貫き、その生涯を、多くの女性が男性と対等でいられるような基礎学力と高い専門性を身につけられる教育に尽力されたのです。
津田梅子は帰国子女!父が仕組んだ留学で二度も渡米!教育方針は?のまとめ
津田梅子さん。
新5,000円札のデザインを見る限り、「あまりキレイな女性ではないなぁ」程度にしか思っていませんでした。
でも全然違っていました。
6歳の頃に日本を離れ、アメリカへ留学。
もしこの一件がなかったら、日本の教育はまだまだ発展途上にあったかもしれません。
11年間、日本では学ぶことが出来ないような勉学に励んで、いざ帰国してみたら時代錯誤のような日本の在り方にカルチャーショックを受け再び留学。
全ては女性の地位を向上させるためでした。
意思が固いというか、信念を持っているというか、余程のことがない限り自分の一生涯をかけるなんてことは出来ないと思います。
津田梅子さんは、もっと多くの人に知ってもらうべき女性の一人でした。