2019年5月1日をもって平成の時代が終わり、新たに『令和(れいわ)』の時代が始まります。
皆さん、準備は出来ていますか?
元号が変わると共に今後の日本をより豊かなものにしようと、日本国民はどきどきわくわくと胸を踊らせています。
そんな折に政府が発表したのが『紙幣(お札)の肖像の変更』でした。
これには多くの国民が衝撃を受けましたね。
約40年間、一万円札の顔として定着していた『福澤諭吉』大先生がついに任期を終え、『渋沢栄一』さんに世代交代することになったのです。
福澤諭吉大先生といえば、学問のススメを書いたことで有名で、日本国民なら誰もが知っている人物です。
歴史の教科書にも登場しますもんね。
大人数の言葉を一斉に聞いても聞き分けられるとして有名な聖徳太子さんから、慶應義塾の創設者であり教育者でもある福澤諭吉さんに一万円札の座を譲ったのが1984年。
当時の二人を比べると、色合いやでデザインが似ているとは言いつつも、やはり衝撃的な違和感がありました。
時が経つにつれてようやく実感が湧いてきたところなのに、今回もまた『渋沢栄一』さんって?
誰?
何をした人?
日本にとって、大きな動きをした偉大な人物なのですが、意外と知られていなくて残念です。
そこで今回は、新一万円札の顔に選ばれた『渋沢栄一』がどんな人物だったのか、何をした人なのか、一万円札の顔に相応しいのかどうかについてまとめました。
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渋沢栄一ってどんな人物?
渋沢栄一の基本情報
名 前/ 渋沢栄一(しぶさわえいいち)
幼 名/ 栄二郎
別 名/ 栄一郎・篤太夫・篤太郎
出身地/ 武蔵国榛沢郡血洗島村(現:埼玉県深谷市血洗島)
生年月日/ 1840年3月16日
没年月日/ 1931年11月11日
父/ 渋沢市郎右衛門元助
母/ エイ
渋沢栄一さんは、『天保-弘化-嘉永-安政-万延-文久-元治-慶応-明治-大正-昭和』と、実に11つの元号を強く生き抜いてきました。
天保といえば江戸時代末期で、世の中はまだ、腰に刀を指して髷を結った武士が歩き回っていた時代です。
渋沢栄一さんはそんな時代の農家の三男として誕生し、長男として育てられました。(渋沢栄一さんのお兄さん二人は早世されています)
しかし渋沢栄一さんの実家、ただの農家ではありません。
『豪農』です。
富や勢力のある農家の生まれだったので、お金に困ることのないお坊ちゃんだったのです。
幼い頃から勉強熱心
渋沢栄一さんが5歳の時には厳格な父・市郎右衛門元助から学問を習い、7歳になると10歳年上の従兄弟・尾高惇忠さんのもとに自ら通って、『四書五経』や『日本外史』を学びました。
勉学に励む一方で、家業も一生懸命に手伝う働き者だったそうですよ。
米や麦や野菜の生産・養蚕業を手伝いながら、染料である藍玉の製造販売では原料の買い入れと販売を行い、現実的な商業の才覚を見せたと言います。
また、14歳になると渋沢栄一さんは単身で仕入れを任されるようになりました。
やはり、色々なことを吸収しやすい幼い頃に脳をフル稼働させ、物事を理解する力をつけると立派な大人に成長するんですね。
21歳、渋沢栄一さんは江戸に出て更に勉強をしたいと父・市郎右衛門元助に猛アピールすると、その勢いに押され、農業が閑散期となる春先の二ヶ月間に限定して江戸に行くことを許されました。
都会では色々な影響を受ける
渋沢栄一さんは江戸下谷(現:東京都台東区)に出ると、海保漁村先生が開塾していた『伝経盧(でんけいろ)』に泊まり込みの門下生となり漢学を学びます。
と同時に、神田お玉ヶ池にある千葉道場にも通い、北辰一刀流の剣術も学び始めました。
剣術と言ったら血の気の多い人が集まるイメージが強いですよね。
勤皇志士、つまり『天皇に忠誠を誓った志しある者』たちと交流するようになると、その影響を受けた渋沢栄一さんにも『尊王攘夷』の思想が芽生えてしまいます。
『外国の、日本侵略に屈した幕府は腰抜けだ』
『我々は天皇に忠誠を誓い、腰抜け幕府を倒幕する!』
江戸幕府のやり方に不満をもった下級武士たちが手に手を取って、活発な反幕排外運動を行ったのですが、渋沢栄一さんもまたその運動に加わったのです。
この時に企てた計画はこんな感じでした。
『高崎城を襲撃し武器を奪い、横浜を焼き討ちしたら長州と連携して幕府を倒す!』
この計画を必死の説得で止めたのが、従兄弟の尾高長七郎さんでした。
長七郎さんにしてみれば、お姉ちゃんの旦那さん(栄一)だけでなく、実兄(尾高惇忠)までもが危ない道を進もうとしているのですから、それはそれは命懸けの説得だったに違いありません。
計画を断念した渋沢栄一さんは、京都に出ます。
第15代将軍・慶喜の幕臣となり大出世
一橋家の用人の勧めで、一橋慶喜に仕えることになった渋沢栄一さん。
一橋慶喜が江戸幕府の第15代将軍となると、渋沢栄一さんは将軍直属の家臣である幕臣として仕えるようになります。
倒幕を企てていた渋沢栄一さんにとっては大出世ではないでしょうか。
慶喜に仕えて数年後。
フランスで開催されるパリ万博に幕府が招待されると、渋沢栄一さんも使節団の一員として同行し、近代的な産業や諸制度を見聞することになります。27歳のときでした。
渋沢栄一って結局何をした人?
明治維新後に帰国した渋沢栄一さんが、なによりも一番に実現したかったのが、銀行の設立でした。
お金の流れを確立することで、産業の発展を目指したのです。
静岡で商法会所を作りましたが、これは日本で初めての株式会社といわれています。
第一国立銀行(現:みずほ銀行)・東京証券取引所の他、500以上もの会社の設立や経営などに携わりました。
『Bank』を『銀行』と訳したのも渋沢栄一さんです。
日本主義経済の発展に貢献・尽力してきた渋沢栄一さんは、『日本資本主義の父』と呼ばれ称されている偉大な人物なのです。
渋沢栄一って新一万円札の肖像に相応しいの?
幕府倒幕を企てていた幕末、もし尾高長七郎さんの説得を聞き入れることなく実行していたとしたら、日本の歴史は全く違ったものになっていたかもしれません。
あのとき踏みとどまってくれたからこそ、フランスで近代的産業などに触れ500社もの会社を設立したのですから。
今の日本があるのも、少なからず渋沢栄一さんが尽力されたお陰だと思います。
日本の経済が豊かになるように、そして幼い頃から心に引っかかっていた『官尊民卑』を打破すべく活動し続けた渋沢栄一さん。
これだけのことを成し遂げているのですから、一万円札の顔としては充分ふさわしい人物と言って間違いありません。
実は過去に、何度も紙幣の肖像候補に上がって最終選考まで残っては落選し続けていたそうなのです。
渋沢栄一さんが最終選考で落選する理由は、『偽造防止策の髭がない』ことでした。
確かに、歴代の紙幣肖像画に採用された人物の『髭率』は高いですよね。
男性15人中、11人は立派なお髭を生やされています。
現在は偽造防止の技術が向上したため、髭のない女性でも肖像画に採用されるようになりましたので、今回は満を持して、お髭がない渋沢栄一さんが選ばれたというわけです。
渋沢栄一ってどんな人物?何をした人?新一万円札の肖像に相応しい?のまとめ
幼い頃から勉強に励み、家業を手伝いながら商売人としての才能を発揮させていた渋沢栄一さん。
尊王攘夷・反幕府運動に感化され、大胆不敵な計画を実行しようとしたこともありましたが、その過程もまた『日本資本主義の父』と呼ばれるのには必要な歩みだったのです。
生涯をかけて、日本の経済に尽力した渋沢栄一さん。
その実績から、大柄な人物をイメージされることが多いのですが、実は小柄な男性で身長も150cmくらいです。
新一万円札の顔となる渋沢栄一さんに、少しでも興味を持たれましたら『渋沢史料館』に足を運んでみてはいかがでしょうか。