現在フリーアナウンサーをしている生島ヒロシ(いくしまひろし)さんの子供が、俳優として活躍していることをご存知でしょうか。
生島ヒロシさんの長男・生島勇輝(いくしまゆうき)さんは2013年放映の『図書館戦争』や、2014年放映の『相棒-劇場版Ⅲ-巨大密室!特命係絶海の孤島へ』など、当時話題となった映画に出演されています。
映画だけでなく多数のドラマにも出演されているのですが、外見がどうしても強面系ですので、トレンディードラマというよりはサスペンスやミステリーといった仕事の方が多いようです。
そんな生島勇輝さんですが、実は意外なものにハマりそれを生業として生計を立てるつもりにしていたそうです。
そこで今回は、生島勇輝さんが目指していた職業や英会話が得意になった理由と、父親や弟など家族のこと、そして気仙沼復興支援ボランティア活動についてまとめました。
生島勇輝は将来ラッパーになりたかった!
生島勇輝の基本情報
名 前/ 生島勇輝(いくしまゆうき)
出身地/ 東京都
誕生日/ 1984年4月4日
血液型/ A型
身 長/ 177cm
体 重/ 68kg
趣 味/ フットサル
特 技/ 和太鼓・英会話・ラップ
事務所/ ケイダッシュ
2世タレントのデビューが増える昨今、生島勇輝さんもその内の一人です。
生島勇輝さんは東京生まれ東京育ちで、幼小中高一貫校の私立暁星高等学校を卒業されています。
暁星高等学校といえば偏差値が70を超えると噂されているほどのエリート高校ですよね。
大学は玉川大学芸術学部へ進学されました。
大学在学中にイギリスとアメリカに留学しているため、英語力はかなりの高レベルなんですよ。
流石、芸能人の子供は生まれながらにして裕福であり、進める将来への道も多く用意されていると言った感じがして羨ましい限りですね。
そのアメリカ留学中のことです。
アメリカはヒップホップの本場であるため、その中でも生島勇輝さんはラップにのめり込み特技となるまで腕をあげました。
周りの人たちが称賛してくれるような特技でしたら、将来それで食べていこうと考えてもおかしくはありませんよね。
生島勇輝さんは大胆にも、大学を卒業した後は『ラッパー』になろうとしていたのです。
しかし父・生島ヒロシさんは、もっと堅実にもっと安定性のある職業についてもらいたいと強く願ったのでしょう、息子のラッパーへの将来には厳しく猛反対を示したそうです。
2008年には父親の個人事務所である生島企画室に所属し、リポーターやタレントとして活躍していた時期がありますが、「父親とは同じ職業には就きたくない」という考えを持っていたので、今のケイダッシュへ移籍をすると2011年の舞台『時計~僕がいる理由』で俳優としての人生を歩み始めたのです。
生島勇輝の父親や弟とは
生島勇輝の父親
先にもご紹介した通り生島勇輝さんの父親は、フリーアナウンサーとして活躍する生島ヒロシさんです。
現在はあまりTVで姿をお見かけしないなと思っていたら、芸能プロダクションの『生島企画室』で代表取締役会長を務めていました。
代表取締役社長ではなく、会長ですよ! か・い・ちょ・う!
生島ヒロシさんと言えば、タモリさん司会の音楽番組『ミュージックステーション』に長く出演されていたと強く印象に残っていますが、実は1990年4月~1993年9月と、意外にも3年半しか出演されていませんでした。
最近はテレビショッピングで、健康食品や装飾品などの紹介をされています。
生島勇輝の弟
生島勇輝の弟さんもまた、芸能界の道に進んでいました。
名前は、生島翔(いくしましょう)さんとおっしゃいます。
生島翔さんの凄さは、ダンスの勉強をするために15歳という若さで単身アメリカに渡ったことではないでしょうか。
しかも、全く英語が話せない状態で・・・、よっぽどダンスに衝き動かされる何かがあったのでしょうね。
高校や大学もアメリカのスクールに通い、ちゃんと卒業もしています!
大学に至っては、飛び級して3年間で卒業していますからダンサーとしては優秀な方だったようですよ。
最初はダンスだけを専門にしていましたが、その後は演劇も学ぶことでダンサーを続けながら俳優活動も行っています。
日本を出国した時は英語が全くダメだった生島翔さんも、長くアメリカで生活をしたことでペラペラ喋れるようにもなりました。
現在は帰国し、父親である生島ヒロシさんの個人事務所『生島企画室』に所属し、俳優や振付師として精力的に活動の幅を広げています。
生島勇輝は兄弟で気仙沼のボランティア活動!
生島勇輝さんの父親の生島ヒロシさんの出身地が実は、2011年3月11日に震災によって被災した宮城県気仙沼市なのです。
気仙沼には当時、生島ヒロシさんの実妹夫婦が住んでいました。
この年の2月に亡くなった生島ヒロシさん兄妹の母親の納骨のために、実妹は母親の遺骨や位牌を携えて3月12日に上京する予定になっていたのですが、不幸にも上京する前日、震災と津波は生島ヒロシさんの実妹に襲いかかり命を奪われることになってしまったのです。
生島勇輝さんにとっては叔母にあたります。
親戚の叔母を失ったことで生島勇輝さんもまた被災家族となり、東日本大震災とどの様に向き合っていけば良いのかをボランティア活動を通して、弟・翔さんと共に気仙沼と向き合ってきました。
『Kesennuma,Voices.東日本大震災復興特別企画~堤幸彦の記録~』は、震災の翌年から毎年3月11日に、生島勇輝さん・翔さんの二人の兄弟が被災地の声を聞きありのままの状況を、ドキュメンタリードラマとして放送をしてきました。
2019年は、父・生島ヒロシさんが担当している『おはよう一直線』というラジオ番組で、気仙沼市から中継リポーターを担当していましたね。
震災からかなりの月日が流れましたが、気仙沼はまだまだ完全に元通りとはなっていません。
力及ばずで口惜しい思いをしているのでしょうね。
しかし現地に生きる人々の力強い復興へのパワーに、勇気や希望を逆に与えられているようです。
生島勇輝さんのまとめ
生島勇輝さんをまとめました。
こうしてみてみると、二年間の海外留学で英語がペラペラ喋れるようになったり、ヒップホップ本場のアメリカでラップに目覚めラッパーを目指したり、それを父親に反対されたり、役者を目指し俳優になったりと、短時間に色々なことが起きていました。
最近は海外の映画にも出演していたようですよ。
東日本大震災では生島勇輝さんにとって大切な命を失いましたが、だからこそ被災地と真剣に向きあう機会ができ、震災の恐ろしさや虚しさ・命の尊さを『伝える』ことが出来るのです。
一般人では出来ない『伝える』ことが出来る俳優は、本当に素晴らしいお仕事だと思います。
俳優・生島勇輝さんの、今後の活躍を応援していきましょう!